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知らぬが仏幸福論

No.256(2024.03.24)


インターネットに何を求めるのかは人それぞれです。娯楽、儲け話、裏情報などなど。
おっとっと仮想の社交を求めるのが一番一般的なのかも。自分がNO SNSなのでうっかりしていました。(苦笑)

私の場合は、悲観的な認知バイアスがかかっているためか、暗い未来を想起させられる情報に引き寄せられてしまいます。
時間軸や確率論を失念した状態で接してしまうと、世間からは陰謀論者とみなされるであろう精神状態に陥ることも。(笑)

人為的な事象である現代文明が悲惨な終着点に至るとしても何も成しえない無力さを感じますし、自然災害や太陽フレアなど宇宙レベルの大惨事に対しては絶望感を抱いてしまいます。

現実に起こり得ることが、ある程度予測できるようになった現代では「杞憂」と切って捨てることはできません。

かつてガンが不治の病だった時代には、患者に告知するか否かが問われました。知った本人が生きる希望を失うかもしれなかったからです。
死を宣告された時に残された時間をどう過ごすかあらかじめ決めている人はいないでしょう。

現在ではガンは必ずしも死に直結するわけではありませんし、本人への告知も多いようです。余生の過ごし方を、治療をどうするのかも含めて自分で選択できるようです。ただし強い意志が必要です。
自分がガンだと知ったおかげで悔いの残らない生き方を実践できることもあるでしょう。本人次第です。

ひるがえって、幸せとはどんな状態のことなのでしょうか。生活苦がなく、とりあえず健康で心配事がなければ幸せだと感じますか。
今の状態が続くことを願いつつも、のほほんと暮らしている日々に幸福感はないと考えます。
逆に、私的なことから大きな厄災まで、悪いことにばかり取り越し苦労していても幸せを感じることはないでしょう。かと言って、大災害や原発事故などは、不確実ながら生きているうちに巻き込まれる可能性があります。

災いの種は知らないか忘れてしまった方が幸福なのかどうか、を表題に表わしてみました。

何事もない日常が当たり前ではなく、いつ失われるか分からないことを忘れてはいけません。平凡な日々にこそ感謝する気持ちが幸福感なのではないかと考えるようになりました。


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