今回は30年以上前、私が中学生だった時の話から始めます。
当時の都立高校を受験する際には偏差値を基準に数校をまとめて構成された学区で受験先を選び、合格者は受動的に各校に割り振られる方式になっていたので、受験生自身が進学したい高校を選択することは不可能でした。 入学試験科目は主要3教科とされていた英語、数学、国語でした。 また受験以前に、1年生2年生それぞれ3学期時、3年生2学期時の全科目の5段階評価から作成された内申書の数字(計算方法失念)によって進路指導時にどの学区を受けるかが決められていました。 前置きが長くなりましたが、最初は私が中学1年生だった年の3学期に起こった出来事です。 書道の先生と私の間で成績評価に関する確執がありました。 確か書道に限らず主要3教科以外の科目は受験時に試験がない分、その5段階評価の数字にある係数(1.2だったか?)を乗ずることで内申書における比重は大きくなっていたと記憶しています。 書家としてもある程度名が通っているらしかったその先生の威圧的なところが元々私は好きではありませんでした。 その先生が内申書に言及したことがそもそもの発端であっただろうと思います。 反抗期でもあったであろう私は師に対する反発から書道の授業終了時に提出しなければならない課題を提出拒否するようになりました。 成績を確定しなければならない学期末近くになると、担任の先生が高校受験のことを心配して間に入って仲介してくれました。 担任に対して、今からでも課題を全部提出しさえすれば5段階の3にしますが出さなければ2になります、と書道の先生は告げたのでした。 どんなに下手な字でも3にするというのですから書道の先生としては譲歩したつもりなのでしょう。 私は逆に、それじゃ課題を全部提出したのに2や1と評価される生徒はどうなるんだ、という相対評価の矛盾に思いを馳せ、かえって腹が立ちました。 母親にも意地をはらないで提出するよう促さたものの、結局私は最後まで提出することを拒否し続けたので評価は2でした。 善意で尽力してくださった担任の先生には悪いことをしたと今にして思います。 また、私が提出拒否した真意が書道の先生に対して伝わっていなかったであろう点は悔やまれます。 書家としての面子が大人として振舞うことを拒ませたのかもしれませんが、一方的に評価される生徒は弱者であるという事実をどう認識していたのでしょうか。 月日は過ぎて私が大学4年生で卒業を間近に控えていた頃の話に移ります。 その年の後期に私は、迂闊にも事前に単位修得の難易度に関する情報収集を怠ったために(苦笑)簡単に単位を与えないことで有名なある教授の講義を受講するよう申請してしまっていました。 その教授は初講義に先立って早くも単位を与えないような口ぶりでした。 ただし、講義に1回も欠席しないという条件を満たし、なおかつその単位を落としたこことで卒業できなくなり留年してしまう場合だけは不本意ではあるが与えてやると言明しました。 私は既に崖っぷち状態で1つでも単位を落としたら留年決定だったので全講義に出席しました。 学費を親に払ってもらっている上に入学前に1年浪人していた私としては経済的なことを考えると、中学生の時と比べれば手の平を返したような対応をせざるを得ませんでした。(自己弁護) さて成績通達の日、恐る恐るのぞきこむと落第のEになっていました。何故だぁ! さっそく成績表を手に教授室へ直行しました。 これを落とすと卒業できないと懇願したところ最初の約束通りしぶしぶDに変更してくれました。 教授自身は、入学は難しいが卒業は簡単という我国の他の大学に迎合した姿勢をとる学校側の圧力に自身が屈してそうしていることに不満がある様子でした。 そのように自分の主張を押し通すことを断念するまでには過去に色々なもめごとがあったのであろうことがその態度から推察されました。 その時初めてその教授に好感をもちました。 その頃の私は絶対に4年で卒業しなければいけないと相当思いつめていたようです。 今でも年に数回は単位が足りなくて大学を卒業できないという夢をみるくらいですから。 |
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