絶対にもう農村地帯には住まない。
約8年間暮らした農村を離れる際に固く心に誓ったのがこのことでしたし、今でもその気持ちは変わっていません。 ところが離村後6年間、それとは別の感情もずっと湧き続けています。 それはかつて共に過ごした村の人達を思い遣る時に感じるある種の寂しさ、とでも言いましょうか。 おそらく私が地縁血縁なしでよそ者としてその農村に移り住んだに過ぎないのに、私は彼らに情が移ってしまったのだと思います。 その理由は、頻繁に行なわれていた行事や会合の席上においてや、隣近所の濃厚な人間関係のために、彼らと顔をつき合わせて共に過ごす時間が長かったからだと考えています。 苦楽を共にするというほど踏み込んだ関係ではなくても、長い間同じ共同体の一員として過ごしていると情が移ってしまう、ということが村を離れた後で実感できました。 都会での人間関係は質が異なるためか、東京を離れて農村に移住した時にはこんな感情は湧きませんでした。 東京に住んでいた頃の友人知人は、主に同窓生や勤務先の同僚、また共通の趣味をもつ人達のなかでの気の合う人間で構成されていました。 逆に言えば気の合わない人達との付き合いは意図的に必要最小限にすることも可能でした。 また住んでいる場所に根ざした隣近所との人間関係は希薄でした。 総じて言えることは、都会では相手に応じて互いに適度な距離をはかりながらの人間関係を築くのが普通だということです。 一方農村における人付き合いは、これまでこのコーナーで繰り返し述べてきたように、好むと好まざるとにかかわらず従わなければならない半強制的なものです。 べったりか逆にまったく疎遠かという限りなく二者択一に近い人間関係になります。 私の場合は地域にとけ込もうと努めたので前者を選んだことになります。 よって至近距離での付き合いになりましたので、当初は理由なき説教や無作法な詮索に嫌な思いをすることも度々ありました。 そんな風な付き合いを続けているうちに、嫌っていた人物達に対する私の気持ちも、依然として気は合わないものの気を許すくらいに不思議と変化していきました。 そのようなこちらの心の変化はそんな相手にも伝わるようで、それ以後は悪意を込めた話し方はされなくなりました。 元々波長の合った人達とは益々親密な関係になったことは言うまでもありません。 今現在は最低限の人間関係で済ますことができる生活を送っているので、束縛が少ない反面孤独感は強いです。 8年間飲み会に明け暮れていたためか、晩酌をしている時に彼らに思いを馳せることが多いです。 協調と馴れ合い、自由と好き勝手の違いはどこにあるのだろうか、と自問する日々を送っています。 追記(2019.11.12) まだ農村暮らしの記憶が鮮明に残っていた頃にこの記事を書きました。 それから17年、あらためて読み直してみると少々気恥ずかしいものの、この気持ちに変わりがないことも事実です。 この記事がなぜか今でもちょくちょく読まれているようです。 私は、両極端の世界で暮らしたことによって、都会と田舎の人付き合いの仕方を使い分けられるようになっています。 地元の人と付き合う時は郷に従い、私のような流れ者と付き合う時は東京モードにするようにしています。 それはさておき、この17年で日本全体の薄情化が加速度的に進んだのではないでしょうか。 生活の中にITが入り込んできたことが人間関係に大きな影響を与えていると考えています。 喜怒哀楽を共にすることが、お互いに情が通ずるためには重要な条件であると感じています。 ただし時間と空間を共有して、です。 ですからオンラインでは不可能です。 空間を共有するとは、同じ場所にいて面と向かうことです。 相手の表情、息づかい、ボディーランゲージなどを観察することで相手の感情を推し量ります。 当たり前ですが、相互にです。 現在は、会話をする際にも相手の目をまったく見ないという不気味な対応に遭遇することが増えてきています。 特に若い世代に多いです。 成長の過程で意思の疎通をする訓練がなされていないのではないか、と心配になります。 人としてもっとも大切な部分が欠落しているとしたら、豊かな人生を送ることはできないでしょう。 田舎の人たちの中には、最初から親しみやすい人がいる反面、やけによそよそしく冷たく接してくる人も多いです。 最初はその理由が分かりませんでした。 田舎育ちで生まれた土地を離れたことがない人の心情を知ったことによって、その理由が分かりました。 初対面のよそ者に対して強い警戒心がわいてしまうからなのです。 面と向かっても他者の気持ちを理解する能力がなければ、同じように警戒心だけがはたらいてしまうのではないでしょうか。 一堂に会していながらめいめいがスマホをのぞき込んでいて会話がない。 そんな場面を目にすることが多くはありませんか。 デジタルネイティブな世代は無情の世界を築くかもしれません。 なぁーに、人間はそう簡単に変わりゃあーしないよ。 という楽観主義者には賛同できない私です。 |
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