トップページへ

農村で暮らす (18)

No.74(2002.02.15)


住んでいた農村の中で地縁も血縁も皆無な私は、誰の目から見ても明らかによそ者でした。

そんな私があることに気が付くまでに数年かかりました。

私から見れば地元出身の人達は皆「土地の人」と最初は思っていました。

ところが人間関係をよく観察していると、彼ら同士もある境界線でお互いに峻別しているのでした。

生まれてから今までに地元を離れて暮らしたことがあるかどうかが問題なのです。

農村の付き合いは大人の世界のことであって、子供、学生のうちは特殊なことはありません。

社会人として地元で働いた後に土地を離れてよそで仕事をした人の場合は、一応一度は地元の付き合い方を体験しているので帰ってきても相対的にものを見ることができます。

ところが学校卒業と同時によそへ就職してそこの付き合い方が身についてから地元に帰ってきた場合は、よそ者の私に近いほどの違和感を感じることも多いようです。

なまじっか元々地縁も血縁もあるのでかえって付き合い方で戸惑うようでした。

よそを経験していない人達は異なる価値観が持ち込まれることを極端に嫌います。

彼らに前例のない考え方を少しでも示すと拒絶反応を起こし、変なものにかぶれて帰ってきたと烙印を押されてしまいます。

ですから多勢に無勢で押し切られ、心底納得するまで話し合うという展開にはなり得ません。

よって帰ってきてから日を追うごとに口をつぐむようになります。

「活性化」という言葉は地方に行けば行くほど、ある種の期待感を抱かせます。

本来活性とは異なるものが交じり合う際に生じる化学反応のことだと思います。分かりやすく例えればAとBが合わさってCになるような。

私が居た農村の場合は、皆がAで等質化しているところにBが帰ってきて、じきに(Aではなく)Aダッシュになるような感じでした。

よそ者の私の場合は自分を殺してでも土地の風習に従うべきでしょうし、私自身もたとえ田舎の良さが失われるような方向に引きずられていようともそのように努めました。

しかし理由はともかく、故郷の方が良いと思って帰ってきた人たちの意見を頭から否定しているようでは、「活性化」することはまずないように思います。

よそ者の私の目には、Aダッシュの人達の方が本当の田舎の良さを知っているように写りました。


前に戻る 目次へ戻る 次を読む