1998年12月分

音楽雑記帳

トップページへ
---------------

12月26日(土) 誰に聴いて欲しいのか、又は聴きたい人との接点

前日の夕方にパーシー・ジョーンズのベース教則ビデオをダンナと一緒に見た。その際に、挿入されているバンドでのデモ演奏を聴き、こういう音楽はどんな人が聴くのだろうと2人で首をひねってしまった。

今日の午後一番でダンナが郷里に向かうので、残された時間はずっと音楽の発信方法について話し合った。

我々がネットで発信している音楽も誰がどう聴いているか分からない。
果たしてネットはマーケティングによる効率重視の商業主義的なやり方に代わる規模的柔軟性をもった有効な作品伝達方法に成り得るのか?

結論を出せる問題ではないが、お互いに今後も模索を続けるしかないことだけは明らかになった。

---------------

12月25日(金) バンドと打ち込み

ダンナとMIDI作品などを聴いているうちに、アレンジ違いの実例を聴くことになった。

bugglesの2枚目に入っている「I AM A CAMERA」と彼らがそれ以前に参加していたyesのアルバム「DRAMA」の異名同曲「Into The Lens」の聴き比べで、前者がいわゆる打ち込み主体の作品、後者がバンド演奏版である。

後者の8分31秒という演奏時間の長さからもプログレ的拡大解釈の様子が想像できると思う。確かに今時こんな大仰な展開を耳にすることはない。

当初は後者を聴いて大笑いする予定であったが、それまでずっと打ち込みものを聴いていたためか結構良く聞こえてしまった。

一度バンド・アンサンブルを経験した人間は演奏時の高揚感が肉体に記憶されているようで、バンドと打ち込みは別物と感じてしまうのであった。

---------------

12月24日(木) 「オフ会特別版」事後更新3連発

リンクでも紹介しているダンナと何と18年ぶりに再会する。

まずはテレビもBGMもなしで、飲みながら互いの記憶の断片をつなぎあわせる。また18年間の空白期間を互いにどう過ごしてきたかを話し合い盛り上がる。

やはり同世代で同時代に音楽を聴いてきた者同志だけに話しは尽きない。

---------------

12月10日(木) 似て非なるもの、シンセサイザー版

打ち込みシンセ、音の洪水。てなサウンドが邦楽の一ジャンルを形成しているようだが、聞こえてくるだけで神経が苛立つ。

思い起こせばSCRITTI POLITTIの「Cupid & Psyche 85」あたりがその手の走りだったのかもしれない。

動作が不安定で性能が限られたモノフォニック・アナログ・シンセサイザーを使っていかに独創的な音を出そうかと悪戦苦闘した我々の世代にとっては、デジタル世代のシンセ・サウンドがお手軽プリセット音色を連想させてしまうことも確かにある。

しかし、このアルバムにはひらめきがあるし、リズムの「のり」が抜群で気持ち良い。特に一つのフレーズを複数の音色でつないでいく発想は素晴らしいし、今聴いても新鮮である。

どんなに進歩しても自動伴奏が好きになれない私には、初心者向けと称して光りで弾く鍵盤をガイドする方法にいたっては、反射神経で勝負が決まるモグラ叩きゲームと大差ないと思えてしまう。

そうそう、邦楽のこのジャンルのサウンドにはどこか自動伴奏を連想させる部分があるように感じる。それで好きになれないのかもしれない。

---------------

12月3日(木) メセニーが女性シンガー・ソング・ライターになったら

映像を想像しないで欲しい。あくまで音楽的なたとえである。

アメリカ育ちのイエメン人女性Noaがその人だ。彼女が1994年に発表したGEFFENからのファースト・アルバムは私にとってその年のベスト・アルバムだった。

パット・メセニーはスティーブ・ロドビーと共にプロデュースで参加しているが、ギターは弾いていないし曲も提供していない。にもかかわらずメセニー・サウンドになってるのは彼女の音楽世界と重なる部分があるのだろう。

ルパート・ハインがプロデュースしているセカンドではメセニーの曲もとりあげているが打ち込みっぽくてあまり好きになれなかった。

彼女のファースト・アルバムを参考にしたと公言していたユーミンの当時の作品「春よ、来い」のサビの部分のコード進行がファースト1曲目の「I Don't Know」とまったく同じなのはいかがなものか。

---------------

一月前の雑記帳 | 最新の雑記帳 | 一月後の雑記帳