竹場元彦氏との思い出

昨年(2018年)11月に竹場元彦氏が亡くなったことをネットで知り、若かりし頃に短い時間ではあるものの同氏と交流したことがあったので、記憶をたどって記録に残しておこうと思います。

40年くらい前(1980年頃)という大昔の出来事なので、記憶違いにより部分的に事実と異なる内容があるかもしれないことを、はじめにおことわりしておきます。

まず同氏と出会ったいきさつです。

拙サイトの「いもづる式」からリンクしているALLAN吉田氏がギターを担当していたバンドOCTASCOPEでドラムを叩いていた藤田響一氏と知り合いになりました。

当時私はベースやキーボードでALLAN吉田氏や藤田氏、また藤田氏の知り合いのプレイヤーの方たちとちょくちょくスタジオセッションをしていました。

藤田氏は、臨時でドラムを担当することになったオペラハットというバンドのライヴに竹場氏が来ていたことからつきあうようになったようでした。

で、藤田氏が当時音楽雑誌ロッキンオンのライターだった竹場氏を私に引き合わせてくれたのでした。

私を紹介するに当たり、事前に二人がなにか打ち合わせのような話をしたのかどうかは定かではありません。

それ以前に、私は竹場氏に関する知識は皆無でした。

私がやっていたバンドでギターを弾いていたT氏から、竹場氏が自身のバンドで「ホーダウン」をギターでこなしていた、と教えてもらったくらいです。

どのスタジオかは覚えていないのですが、竹場氏がギター、私がベース、藤田氏がドラムで一度だけセッションをしました。

私はその際にもち込んだオリジナル楽曲のフレーズを今でも覚えています。

もっとも、いきなりセッションをしたのではなく、その前後にもどこかで会って竹場氏と会話していたものと思われますが。

洋楽の話題で覚えているのは、私がプログレのYesが好きだと話すと、だったらThis Heatを聴いてみて、きっと好きになるから、と助言してくれました。

また、ゲイリー・ニューマンもいいね、と話すと、人間的にはどうしようもない奴だけどね、と返されましたっけ。

この会話は拙サイトの「お懐古さん」のゲイリー・ニューマンの回に載せました。

また、日本の音楽界にはロックミュージシャンが歩む「道」はない、と嘆いていたのを覚えています。

日本でロックをやるなら音楽活動だけではなく道を切り開かなければならない、とも。

当時のレコード会社の「日本のロック」担当プロデューサーの志の低さを糾弾していました。

日本のバンドではP-MODELや新月の話をしました。

竹場氏はどちらのバンドとも接点があるようでした。

ある日私は同氏から、プロになる気はあるの、と質問されました。

どう答えたのか覚えていないものの、はっきりノーとは言わなかったと思われます。

その時期の私は初めて勤めた会社を退職して無職だったのです。

すると竹場氏は、P-MODELでベースを弾くっていうのはどう、ときいてきました。

平沢氏と親しいようで、平沢氏がベーシストに求める条件は長身であることだから私が適している、と冗談めかして言っていました。

現ベーシストの秋山氏の存在は知っていたので、その話をすると、近いうちに脱退する可能性が高いとのこと。

そんな流れがあったので「お懐古さん」に載せたP-MODEL、ヒカシューのジョイントコンサートに行ったのです。

竹場氏と誘い合って一緒に行ったのか、会場で会ったのかは思い出せません。

ただ、無断アンコール問題の後にステージ上で平沢氏がメガホンを使って謝罪している時には、竹場氏は私の隣に立っていて大声で「平沢は悪くない」と叫んでいました。

この記憶は間違いありません。

このコンサートの後日、平沢氏から実家に直接電話がありました。

ベースとして加入するかどうかの件でした。

竹場氏が平沢氏に私を推薦してくれていたのでしょう。

平沢氏の話の内容は、現在まだツアー中なので終了したらあらためて連絡する、というものでした。

私が電話している時に横で両親が聞き耳をたてていました。

電話の後に、その内容とP-MODELというバンドの概略を説明しました。

ともに音楽好きの両親でしたが、二人とも私がプロを目指すことには絶対反対で、どうしてもそうしたいなら家を出て行け、とまで言われてしまいました。

アマチュアの方が自分の好きな音楽をできる、とも言ってましたね。

そこまで強い決意で臨んでいたわけではなかった私はあきらめることとしました。

そしてお詫びの電話を竹場氏にかけました。

本人不在だったのでお母様に伝言を頼んだ記憶があります。

その際に私が「もとひこさん」と名前の読み方を間違えたところ、お母様からちょっときつめに叱られてしまいましたっけ。

その後も藤田氏らと時々セッションをしているのですが、竹場氏とはそれっきりだったと思います。

そうそう、その後藤田氏の仲立ちで新月の津田氏、花本氏と一度だけセッションしました。

私はベースを弾きました。

津田氏はテープエコーを用いてスティーブ・ハケットっぽい演奏をしていましたね。

また、当時花本氏は「ぴあ」で仕事していたのではないかと思います。

名刺をいただいたような記憶もかすかに、、、

現在手元にないので事実かどうかは不明です。

そのセッション後に花本氏が、音楽性からみて一緒に活動できると思うのだがどうか、と打診してきました。

どうやら事前に藤田氏から私がOCTASCOPEに提供した楽曲「海底牧場」を聴かされていたようでした。

私はすでにプロになる気が失せていたのでおことわりしました。

竹場氏とのセッション、津田、花本両氏とのセッションは、ともに藤田氏がカセットに録音していたものの、私の手元にはダビングテープがありません、残念。

ですからセッションをした正確な年月日はそれぞれ不明です。

ただ、今回古いカセットテープを調べてみたら関係ありそうなものが残っていました。

1981年5月27日にコルグのショールームスタジオで、ALLAN吉田氏、藤田氏、私(キーボード担当)、プラスベースの方でセッションした時に録音したカセットテープです。

そこに藤田氏の筆跡でSPECIAL THANKS北山真(新月)と書いてあります。

そういえばセッションを見学に来ていた記憶があります。

ネット情報によるとその後、藤田氏は新月の正式メンバーになったようですが、その頃には私とは音信不通状態でした。

同じくネット情報によると竹場氏は新月のマネージャーをしていたこともあるようです。

藤田氏と竹場氏の交流は続いていたのかもしれません。

ここ南の地から竹場元彦氏のご冥福をお祈りします。
(2019.08.21記)

追記(2019.08.26)

本文中に誤解を与える表現がありました。

「プロになる」というのは正確には「プロを目指す」ということです。

プロになるのが至難の業であることを「道」がないと表現していたのです。

ロックではご飯が食べられなかったんです。

成れるか成れないか分からないロックミュージシャンを目指す、とは。

経済的には、親の脛をかじる、アルバイトで稼ぐ、パトロンをみつける、などの方法しかなかったのです。

以上、一応補足説明しました。

一度だけのセッションを録音したテープがみつかりました。

ALLAN吉田氏が藤田氏から預かり保管していた中に現存していたのです。

吉田氏のご厚意により私の手元に音声ファイルが届きましたので、ここに置いておきます。

作品1(tuf01.mp3/7.45MB/4:36)

作品2(tuf02.mp3/3.49MB/2:12)

竹場元彦(Guitar)
上村順一(Bass)
藤田響一(Drum&SynDrum) ---------------

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