Z世代と呼ばれる人たちが「水たまり」、「道草」と聞いて認識するものごとが私と同じなのかがまず分かりません。 万が一に備えて、最初に意味するものを定義しておきます。 水たまりとは、未舗装の道路のくぼみに雨水がたまった状態を指します。 道草は、目的地に向かう途中で別のことにかまけて余計な時間を費やすことで、語源は馬が進行中に路傍の草を食べ始めてしまうことからきています。 私が小学校低学年だった昭和30年代後半には未舗装の通学路がまだありました。 厳密にいえば私有地になると思われますが。 登校時には通らず下校時だけ通る道で、時々地主のオヤジさんに「こらぁ」と叫びながら追いかけられたりもしました。 今考えればいい大人でしたから追いつかないように走っていたのでしょう。 でこぼこ道なので雨のあとはくぼみに水がたまりました。 朝は雨が降っていて帰る時にはやんでいた日に水たまりで道草をしたものでした。 長靴をはいていたので水たまりに入れるため、友達と水たまりに入って強く足踏みをして水のかけ合いをするのです。 友達に泥水をかけるつもりでバシャバシャするものの、当然自分にもかかるので、結局どちらも泥だらけになります。 してはいけないことをするから楽しいわけです、お互いに。 帰宅後に叱られるのですが、忘れた頃にまたやってしまう遊びでした。 なんの得にもならないどころか服を汚してしまうのに、楽しくて友達との連帯感も得られる時間でした。 無駄な時間、時間の浪費だ、と考えますか。 現代の実利第一主義的価値基準でいえばその通り、と私も思ってしまいます。 私に近い年代の人は「道草」に楽しいものという肯定的な要素を感じるのではないかと推察します。 人生の到達点、というか最終地点は死です。 だったら日常生活はできれば楽しい「道草」にしたいと感じて書きました。 きっかけは雑誌、日経トレンディ10月号の「ずるい!文章術」という特集記事を読んだことです。 ビジネス文書の書き方指南ですから合理性の追求になるのは致し方ないことだと認めます。 読んでいて現代のビジネスマン(死語)のおかれている状況に暗澹たる気持ちになりました。 効率を極度に追及しなければならない息苦しさの連続。 のように感じられました、高齢者にとっては。 現代は子供の時から同じ状況におかれているのでは、と気がつきました。 空の雲をながめたり、虫の動きに目を凝らしたりする時間はあるのだろうか。 地球環境の持続性も大切でしょうが、人間らしさを失わないことはそれ以上に大事なのでは、と総スカンをくらいそうな考えがうかんだのでした。 |
前に戻る | 目次へ戻る | 次を読む |