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自然とはいのちのこと

No.100(2002.11.02)


駄文を書き連ねているうちに100回になりました。

さて、私が田舎暮らしを続けているのは、田舎にはまだ自然環境が残っているからだと漠然と意識してはいました。要するに私は自然が大好きだということです。

では、自然とはいったい何だろうかとあらためて考えてみました。

人間も自然の一部でそれに含まれるという見方もできますが、ここでは自然とは人工の対極にあるものとします。

人工とは言うものの、人間が何かを創り出したのではなく元々自然界に存在しているものを都合よくいじくりまわしているに過ぎないと私の目には映るのですが。

地球上に住んでいる我々は生物がいないとされる他の星に自然を感じるでしょうか。

おそらく日常の普通の感覚では誰もそうは感じないでしょうし、むしろ「死の世界」という言葉の方がしっくりくるのではないでしょうか。

その反対に多種多様ないのちで満ちている環境が私にとっての自然なのだとある時気付きました。

そしてそれらいのちのつながりのなかに自分も居るという安堵感が好きなのだということです。

もっとも私は聖人君子ではないので家の中に入った蚊は手で、食事時にブンブン飛び回る蝿を捕まえられない時は蝿叩きでそれぞれ殺しもします。

いのちとは互いに連関し、時には依存し合って共存するものだと考えていますし、殺し殺されるのも日常的なできごとです。

数年前に飼い犬が死んだ際に、死の数日前から普段は目にしない大きな銀蝿が死臭を嗅ぎつけて犬の身体に卵を産みつけに飛来したのには驚きました。

もちろん卵はふき取ってやりましたが、一部残ったものがちょうど死ぬ直前に孵ってウジがわいたことに二度ビックリしました。(それらも取り除き埋葬しました)

このように自然の摂理(いのちのつながり)とは人間の考える善悪、好き嫌い、きれい汚いなどとは無関係です。

五感全てで自然(いのち)を感じる生活をしていると不思議と謙虚な気持ちになってきます。

傲慢にならなければ、科学の名のもとにいのち自体をいじくりまわすなどという狂った発想も浮かばないでしょうに。


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