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自作「バカの壁」だった

No.112(2003.05.09)


マクロビオティック的食事法(玄米菜食)を厳格に実践している友人達と話していると違和感を感じるようになったのは、かれこれ7~8年前だったと思います。

その理由は、身体の健康状態のことならまだしも精神的なことから家庭内や仕事の問題点、さらには社会的な事象まで全ての原因を食事法に還元するという論理の飛躍に対して私が辟易してきたことでした。

それ以後は彼らとの飲み会の席で私はしばしば「だいたい食事だけで健康になれるという考え自体がおかしい」と毒突くようになりました。

それでは生易し過ぎて相手に通じていないと感じられた時には「侵略や内戦などの非常時に目の前で両親を虐殺された子供が仮に玄米菜食をしているからといって健康でいられますか」と個人主義には限界がある点を責めたりもしてみました。

そこまで言っても相手に私の意図していることが伝わっていないと分かった後は、仕方がないと諦めてそれ相応の付き合い方を続けています。

インターネットを利用するようになった私は、ネット上なら私の考えを理解してくれる人がいるのではないかと検索エンジンで探してみました。

その結果知り合うことができた方達のうちの一人が「網以後すぅ」に載っている「温心堂薬局HP 」の香田さんです。

時期は前後しますが、彼も私同様マクロビオティック・メーリング・リストに参加したものの場違いな感じがして脱退していたことも知りました。

マクロビオティックを批判的な目でも見ることができるようになっていた私は「温心堂薬局HP 」の食に関する記述を読んでいて、おやっ?、と思うところがありました。

彼が文章を引用している「自然食は安全か」という本を発刊直後に読了していた私なのに、その内容に記憶がなかったからでした。

今思えば読んだ当時は私が身をもって玄米菜食を実践して身体に劇的な変化があったこともあって、玄米菜食絶対主義に陥っていたからでしょう。

そのために玄米食に否定的な要素は無意識のうちに拒絶していたものと察せられました。

何のことはない前述の友人達とまったく同じ状態だったわけです。

そんな訳で印象に残らなかった同書は引っ越す際に処分してしまっていました。

さて、その件で「理解する」、「分かる」、というのは難しい問題だなぁ、と実感していた私はそのことがテーマになっている「バカの壁」という新書の新聞広告をたまたま見て、この本は今の私にとって必読書だと感じました。(この本はよく売れているらしいですね)

さっそく買って途中まで読んだ時点で、「自然食は安全か」の方を先にもう一度読む必要性を感じた私は、少しでも早く読みたかったのでアマゾンに注文しました。

なるほど確かに前回読んだ時には心にとまらなかった事柄も多く、当時の私が自ら「バカの壁」を築いていたことが実感できました。

その体験を踏まえた上で新書「バカの壁」も読み終えました。

玄米菜食を実践すると必ず身体の変化を伴うので、昨今のお洒落ファッションのりマクロビオティック・ブームにはまってしまうことの危険性をさらに深く認識するに至りました。

今後この問題点に関して拙サイトに新コーナーを設けようかと検討中です。

以下余談になります。

新書「バカの壁」にも「あべこべ」に関する記述がありますが、先日それに関連した新聞記事をみつけました。

民主主義は、誰か先生の口を借りてここで第一声を発した。それは実に「昨日までのことは悪いこと。昨日までと逆のことをやったらよろしい」といった乱暴な定義づけで、先生より生徒がえらい、巡査より泥棒がえらい、親より子がえらいといった解釈が大真面目で通用した。(中略)

思えば、この愚かしく、滑稽で、乱暴な民主主義の解釈を、その後誰も修正していない。政治家も教育者も正解を語っていない。

(2003年5月5日付日本経済新聞、私の履歴書、阿久悠氏より引用)

これは作詞家・作家の阿久悠氏が敗戦直後の小学校で占領軍から与えられた民主主義に直面した体験を述べたものです。

戦後生まれの私でも、当時のアメリカ合衆国の対日占領政策の悪意に満ちた実態を知れば知るほど腹が立ってきます。

しかし、何でもかんでも陰だ陽だと陰陽論で説明しようとする前述の友人達と付き合いのある私には、阿久悠氏の述べたような状況になったのはアメリカ合衆国の仕業ではなく日本人の二元論好きのせいだと思えてきます。

参考文献

  • 「バカの壁」養老孟司著/新潮新書
  • 「自然食は安全か」高橋晄正著/農文協

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